第039回:豊田泉太郎、阿比留信

・豊田泉太郎、阿比留信 (1903 – 1998)

伯父豊田泉太郎は立原道造に最初に軽井沢を案内した事で日本文学史に名を留めることとなったが、実はT.S.エリオットやエズラ・パウンドなどを日本に紹介した英文学者でもあった。ペンネームは阿比留信(アビル・シン)。不思議な名前だが、伯父の出身地(そしてひいては僕自身の先祖の出身地)と関係がある。

阿比留という苗字は実は対馬にしか存在しない苗字なのだ。(勿論本土に渡った人もいるので例外もある)かれこれ10年ばかり前、日経新聞に「韃靼の馬」(だったんのうま。だったんをタタールと読むと言う人がいるが奥付には「だったん」とふりがなが振ってある)と言う小説が連載されていたことがある。辻原登作の小説は後に本として出版されたが600ページを超える大作だ。第15回司馬遼太郎賞も受賞している。小説の帯には「18世紀、激動の東アジア。伝説の、天馬を追って、海を越え、大陸を駆け抜けた日本人青年がいた。爛熟期の徳川、緊迫する日朝関係を背景に、壮大なスケールで贈る一大伝記ロマン」とある。

この作品の主人公の日本人青年の名前は何と阿比留克人である。伯父が生きていたら驚いたことだろう。しかし、面白いことに伯父は極めて用心深い人で大陸に冒険を求めて渡るなどと言う事は全く頭の中になかったことだろう。何れにせよ阿比留のペンネームの由来は対馬で、あまりくわしく聞いた事はないが、実際遠縁に阿比留姓のものもいるという事だ。

「韃靼の馬」に描かれている様に対馬は朝鮮通信使の接待を中心に朝鮮との外交担当の窓口だった。言い伝えによると豊田の先祖には勘定方として江戸の藩邸に詰めていた者もいた様だ。残念ながらその頃の記録は豊田家には一切残っていないが、先祖のDNAが明治になって祖父が半島に出向き、商いで一儲けしたことと少しは関係があるのかもしれない。

対馬、厳原出身の祖父豊田福太郎は日清戦争より前に朝鮮半島に渡り、米穀商として成功した。いっときは戦前の釜山の商工会議所の会頭を務めた事もあるとのことで東京青山に家を建てるまでは、ずっと釜山に住んでいたらしい。釜山の山手の東莱(トネ)は韓国では珍しく温泉が湧き出るところで戦前は日本人向けの温泉宿が多数あったそうだ。その中の一つに祖父が経営していた豊田旅館という大きな旅館があったのだが、今はロッテ系の会社が全く建て直して立派な温泉ホテルになっている。戦後この建物はGHQ(米軍総司令部)の命令によって明け渡さざるを得ず、豊田家は資産を一挙に失ってしまった。何しろ日清戦争以前から朝鮮に住みついていたために引き揚げるタイミングを失してしまった様だ。

 伯父が戦前の軽井沢で立原道造の案内をした当時の思い出『あの頃の軽井沢』に「少年時代を海辺で育った私は後年海のブルーではなく、緑と岩と土と花の山地に一種のあこがれを持つようになり、アルプスを初め、山地を訪れたのであったが、大正の末にたまたま友人の軽井沢の別荘にひと夏を過ごしてから軽井沢の自然、澄んだ空気、霧の匂い、落葉松の森や白樺と西洋人のたたずまいのかもし出す不思議な魅力に深くひかれ、山麓と信濃の土地を好むようになった。」と書いているが僕はこの「海辺」は実は戦前の釜山の海辺のことを言っているのではないかと思う。

 伯父は慶應中退だったが、当時は卒業しなくても入学できれば経歴にはなった時代だったので「三田文学」などを発表の場として英文学者の道を歩んでいたらしい。堀辰雄夫人、堀多恵子さんの著書「堀辰雄の周辺」にはその辺りのことが書いてある。「阿比留信は辰雄の軽井沢友達で、辰雄の初期の随筆にその名を見る。本名は豊田泉大郎と言い、阿比留信の筆名で「詩と詩論」や「文学」「世界文学評論」「三田文学」「苑」その他の誌上で、アメリカ、イギリスの現代詩の研究発表や紹介に努められた。アメリカの詩人ハリー・クロスビーの詩をまとめた訳詩集を刊行された時、立原道造が「四季」にその書評を書いている。」とある。

先日高原文庫に夏季特別企画、「立原道造の会•事務局会」を見に行った時豊田山荘の模型の前に置いてあった記事にもその辺のことが書いてあった。

「豊田氏は、 青山の自宅に大切にしていた 「ラィブラリー」 (《最も努

力を注ぃだ仕事は、 アメ リカの現代文学、 現代詩の資料を集める仕事でした。 〔中略] ニューョークの出版社と直接交渉で集め[中略] 大変な金を要しましたが、 このラィプラリーには私も極めて自信を持って居りました。》展示に際しての覚書から) を、1945年5月の東京最後の大空襲で失った。その後は研究を断念し、戦後は出版業に転じたため、阿比留信の名も使われることがなく なった。」とある。伯父と父は戦前の丸善からツケで洋書を中心に競い合って本を買っていたと聞いたことがある。

「モード・エ・モード」というファッション雑誌の編集長をしていたが、自転車操業で、あれほど商売に向かない人が広告をとりに出歩く姿は気の毒に思った。軽井沢に立原道造設計の山荘が建っていて蔵書が移してあったら。無念だったと思う。

伯父豊田泉大郎は、立原道造記念館開館記念の展示を見た直後。1998年7月 4 日、94歳8ヵ月の生涯を閉じた。この日がアメリカ建国記念日だったのにも何か不思議なご縁を感じる。