第037回:原爆の日

 今年の原爆投下記念日は75周年と言う特別な年である。

第二次世界大戦末期の 1945年8月6日午前8時15分、米国のB-29爆撃機が、広島市に原子爆弾を投下した。140,000人を超える市民の命が奪われ、爆発と火災で、市の90%以上が損害を受けた。そして、その3日後の8月9日、今度は長崎市へもう一個の原子爆弾が投下された。人類史上初の核兵器の使用だった。

NHKの国際放送ラジオジャパン(そして現在ではNHK World、テレビジャパン)では例年国内の放送に合わせて広島と長崎の追悼式典を放送してきた。僕も広島の式典を一度だけ担当した事がある。昭和60年ごろのことだった。

生放送の実況は普段定時・定形のニュース番組を担当している僕のような国際放送の要員にとってはかなりの緊張を強いられる経験だった。前日に現地入りをして当時英語でご自身の被爆体験を語る活動をしている女性がいたのでスタジオインタビューを行い、記念館を見学、同時に式典の会場の下見をした。

当日の実況と言っても幸い式典はスピーチなどを除いて概ね予定稿があるので、英語の台本を作る時間があった。それでも実際の式典では演説の草稿がなかなか届かなかったり、タイミングが合わなかったりで冷や汗ものだった事を覚えている。

ある意味で式典の肝心の部分は原爆投下の時間に打たれる鐘と1分間の黙祷だ。ラジオは非常に辛い。テレビは周辺の映像を捉えていれば良いが、ラジオは一分間何も喋ってはならないからだ。皆が黙っているときに小声ででも実況中継をするわけにはいかない。そういう場では無いのだ。

うかつにも当日まで気がつかなかったのだが、会場の雰囲気はまさに葬儀や告別式のそれだった。テレビの中継などで見ていても分からない事のひとつに匂いがある。匂いは現場に行ってみないことには分からない。会場は香の匂いに包まれていて、参列者は列を作って原爆記念碑前に設えられたテーブルで次々と献花とお焼香をしていた。

 ところで、原爆死没者慰霊碑の碑文は「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と言っている。これは文章として誰が発言しているのかはっきりしない不思議な言葉だ。誰が誰に謝罪しているのか。日本のようであるが、本当は原爆を投下したアメリカが謝罪すべきではないだろうか。過去に日本の極東裁判においてインドの判事だったパール氏が記念碑を訪問した時、通訳を通して文章の意味を聞いた後、日本人が日本人に謝っていると判断し「原爆を落としたのは日本人ではない。落としたアメリカ人の手は、まだ清められていない」との主旨の発言をおこなった。パール判事はこう言っている。

「ここにまつってあるのは原爆犠牲者の霊であり、原爆を落したものは日本人でないことは明瞭である。落としたものの責任の所在を明かにして、”わたくしはふたたびこの過ちは犯さぬ”というのなら肯ける。しかし、この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。その戦争の種は、西欧諸国が東洋侵略のために蒔いたものであることも明瞭だ。」「ただし、過ちをくり返さぬということが、将来再軍備はしない、戦争は放棄したという誓いであるならば、非常にりっぱな決意である。それなら賛成だ。しかし、それならばなぜそのようにはっきりした表現をもちいないのか」「原爆を投下した者と、投下された者との区別さえもできないような、この碑文が示すような不明瞭な表現のなかには、民族の再起もなければまた犠牲者の霊もなぐさめられない

(Wikipedia ラダ・ビノード・パールより)

原爆死没者慰霊碑の碑文「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」を読む日本人は概ねパール判事の言っている「将来再軍備はしない、戦争は放棄した」という誓いだと思うのではなかろうか。しかし、記念碑が建っている場所、弔っているのが原爆の被害者であることを考えると「過ち」の意味するところはやはり「原爆投下の事実」としか考えられない。そしてそうであるならば謝まっている主体は原爆を投下した人、すなわちアメリカ合衆国の代表としての大統領を意味するとしか思えない。しかし、未だにアメリカは原爆の被害者にまともに謝っていないし、謝ろうともしない。

「自分たちを被害者に仕立て上げるな」というアジアの国々(特に中国と朝鮮半島の人たち)の声が聞こえる様だ。しかし、こればかりは加害者、被害者の問題ではない。ここに祭られているのは核兵器の犠牲者だ。これはまさに “Crime against Humanity” 人類に対する犯罪、と言えるのではないかと思われる。日本は人類のために抗議の声を上げなければならない。