第030回:差別の事、その2

 先月ミネソタ州ミネアポリスで黒人男性ジョージ・フロイドが警察官に首を押さえつけられて死亡した事件をきっかけに各地で人種差別への抗議活動が続いている中、アメリカ南部、ジョージア州の州都アトランタでは警察官が取締りに抵抗して逃走した黒人男性を銃で撃って死亡させるという事件が起きた。恐らく以前だったらこれほど映像が残されることは無かったが、黒人に対する警察の過剰反応は今始まった事ではない。

1963年、僕がちょうどロスアンジェルスの大学に入った時、公民権運動が盛り上がりを見せていたと言うことを話した。マーチン・ルーター・キング師の「私には夢がある」の演説、そしてボブ・ディランがちょうどその年に歌った「風に吹かれて」のいう「答え」はまだ全く聞こえて来ない。

その夢の実現についてはアメリカの社会は黒人どころか有色人種全員に対しても特段優しい国ではない。人種の事はとりあえず棚に上げて置く事にしても過去アメリカの基本的な図式は先に着いたグループが後から来たグループを差別する事の繰り返しだった。さらにもう一つ付け加えると初期のイングランドから来た英語を話す白人はその後ヨーロッパの北部そして南部から来たイタリア系、アイルランド系の人たちを差別し、その間、そしてその後アジアからやって来た中国人、そして日本人も差別された。

第二次世界大戦が始まった直後(1942年2月19日) フランクリン・ルーズベルト大統領による大統領令9066号が発令。「保護」の名目で西海岸地域に住む日系人全員、およびハワイの日系人のうち主だった人々計約11万人が収容所に送られた。これは収容所とはいってもまさに鉄条網に囲まれた捕虜収容所のようなところで、アメリカで生まれてアメリカ国籍を持っていた全体の約60%の日系人にとってこれは屈辱以外の何物でも無かった。

 僕個人としては恐れていた差別はあまり感じなかった。差別用語としてはご存知のジャップというのがあるが、他にはニップと言うのもあるようだ。英米の人に言わせるとジャップよりニップの方が実はよくないのだそうだけれど、僕自身は面と向かってジャップなどと言われた事は1度もない。僕がアメリカに渡った1950年代のアメリカは戦後の良き時代だったからかもしれない。

それでもアメリカで嫌な思いをした記憶が2度ある。高校の頃仲間とテーブルを囲んで昼を食べていたが、ある時家から母が作ったケーキを持っていったことがある。「みんなで食べたら」と言うことでそのケーキをテーブルでオッファーした時、1名「お前のケーキなんか食べられない」と言った子がいた。他の子達は驚き、救いとしては他の子は皆食べてくれた。このケーキがよっぽど出来が良くないと言う事だったのかというとそうとは思えない。この学生はその後確かコーネル大学に行った優秀な子だった。

2度目は大学に入ってしばらくして寮の2段ベッドの上で昼寝していたところルームメートの友人が部屋に立ち寄ったことがある。僕が知らぬふりをして狸寝入りをしていたらルームメートの友人が「このジャップ」などと悪口を言う。ルームメートの学生はそのような事は言わなかったが、僕は「この人たちはやはりこういうことを考えているんだなぁ」と思い、悲しくなった。冒頭で書いたようにアメリカの白人には有色人種に偏見を持っている人がいてなかなかなくならない。

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