7月18日から軽井沢高原文庫では立原道造展が開かれている。
http://kogenbunko.jp/event/?p=1195
立原道造は室生犀星や堀辰雄などとともに軽井沢を代表する詩人だが、実は未来を嘱望された建築家でもあった。東京帝国大学工学部建築科より辰野金吾賞を3年連続で受賞。1学年下には丹下健三が在籍していた。
24歳8か月で世を去った夭折の詩人・建築家、立原道造の多くの未発表資料を含む詩稿、パステル画、建築スケッチ、遺品、著作など約250点が展示される。
ところで、立原が堀辰雄を訪ねて、初めて軽井沢を訪れたのは昭和9年7月22日のことだったが、急用で不在だった堀辰雄の代わりに案内をしたのは僕の伯父、豊田泉太郎(ペンネーム阿比留信)で、その話は「角川版立原道造全集」にも載っている。
「昭和九年(一九三四) 二十一十二日午前十時発の列車で、沢西健といっしょに初めて信州におもむく。軽井沢駅に降り、堀辰雄を旧軽井沢のつるや旅館に訪ねたが、あいにく急用で上京した堀と行き違いになった。しかし堀の依頼をうけた阿比留信(本名豊田泉太郎、英文学者)に案内されて町をみてまわり、さらに室生犀星宅を訪問。二十三日から二十五日にかけて神津牧場・志賀・岩村田・小諸のコースをたどって、二十五日夜は追分に宿泊。以後八月二十日まで追分にとどまって、初めての村ぐらしを経験する。二十六日、堀が東京から追分に戻る。…」
(東京紅團(東京紅団)http://www.tokyo-kurenaidan.com/から孫引き「角川版立原道造全集(六巻)年譜」)
今回青写真も展示されるらしいが、立原は伯父に依頼されて「豊田氏山荘」と言う別荘の設計も行なっている。ポスターの下の方にはロケーションの写真が載っている。
しかし、折から第二次世界大戦勃発、「このご時世に別荘でもないだろう」と言う祖父豊田福太郎の一言で計画は頓挫。約500坪の土地まで手当てしてあった「豊田氏山荘」は幻に終わった。もし建っていたならば、立原道造の数少ない建造物として今の軽井沢の雲場の池近くにその姿を見ることができたはずだった。
伯父の思い出も含めて詳しくはまたの機会に。