つい先日、 NHKはケネディ暗殺事件の真実を追及する事件ファイルを放送した。暗殺者とされたリー・ハーヴィ・オズオルド(Lee Harvey Oswald)は真犯人ではなく、CIAの陰謀という位置づけで、57年前に起きた事件をなぜ今このように追跡するのか、はやや不明だったが、興味深い内容の番組だった。
ケネディーが暗殺された日、君は何をしていたかというのが一昔前の会話のきっかけ(conversation starter)だった。アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディ(John F.Kennedy)は、1963年11月22日 金曜日、現地時間12時30分にテキサス州 ダラス 市内をパレード中に銃撃され、死亡した。「この時君はどこにいた」と言う問いかけは当時およその人に何らかの思い出を呼び覚ました。
奇しくもちょうど百年前の1863年は歴代大統領でやはり暗殺されたアブラハム・リンカーンが「ゲッティスバーグ演説」をした年だ。(ゲティスバーグ演説は、1863年11月19日に行われ、暗殺は2年後の1865年4月14日だった)
1963年11月22日。この日僕は母校UCLAに入学したばかりだった。ロスアンゼルスはダラスとは2時間の時差があるのでロスは午前10時30分。僕は午前の2限の授業を受講するため広大なキャンパスをドーム(dormitory、学生寮の省略)がある西側の高台から講義棟があるキャンパス中央部に向かって歩いていた。優に20分はかかる道のりだ。フットボール練習場の金網沿いに歩いていると前方から悲鳴の波のようなものが押し寄せてくるのが分かった。そしてその悲鳴が目前に迫った時“Kennedy’s been shot”(ケネディが撃たれた)などと聞こえるではないか。「大統領が撃たれた!」ならばクラスどころでは無い、僕はすぐ逆戻りをしてドームに戻ることにした。
ドームでは住人の学生たちが皆食堂でテレビを見ていた。当時一番権威があるCBSイブニング・ニュースのキャスター、ウオルター・クロンカイト(Walter Cronkite)がニューヨークのスタジオから放送しているのが見えた。クロンカイトはケネディが撃たれたことを伝えた後、刻々と入ってくるレポートを極めて冷静に語っていた。現地でレポートしていたのはかすかに南部なまりのあるトレンチ・コート姿のレポーターでダン・ラザー(Dan Rather)と言った。僕は彼の顔をその日初めて見たが、地元出身の彼はこの報道がきっかけで一躍有名になった。ケネディは病院に運ばれたとのことで、結局そのざっと1時間後入院先で死亡した。僕は今でもキャスターのクロンカイトがケネディの死を伝えた瞬間を覚えている。彼は時計があるスタジオの上の方をチラッと見てケネディが亡くなった時間を言い、直後に目頭をかすかに触った。涙を拭ったのだと分かって思ったが、当時のアメリカ人の男性はまず人前で涙など流さなかったので、大統領の死は普段感情を露わにしないクロンカイトのような人の心まで揺さぶる大事件であった事が分かった。
実際この日を境にそれまで底抜けに明るかったキャンパスの雰囲気は一転。同じ寮のアイルランド系アメリカ人でバンジョーを弾いたりして飛び抜け陽気だった人がその後二度と楽器を手にしなかったのを思い出す。彼にとってアイルランド系アメリカ人のケネディは特別の存在だった。何しろケネディが提案したピースコア(Peace Corp,平和部隊)の一員としてアフリカまで行き、大学へは地域の研究のために入学したのだったから悲しみも人一倍だった。
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