第12回:Graham Websterと長崎へ

ラジオ日本で働いていた外国人英語アナウンサーは、複数いるが、その中でもひときわ際立った存在がグレアム・ウェブスター(Graham Webster)だった。

グレアムはオーストラリアのABC放送(Australian Broadcasting Commisson)からの招聘アナウンサーだった。(この制度については以前一度書いたけれど、NHKとABCの国際放送の現場にお互いのアナウンサーが「招待」されて放送するという制度だ)

よほど水が合ったのかグレアムは制度の中で正式には二度、その後ももう一度個人の資格で来日してわれわれの放送を助けてくれた。僕が彼に会ったのは二度目の正式な来日だったが、一度目に指導を受けた先輩諸氏から噂を聞いていたので二度は、まさかの来日で驚き、感激したのを思い出す。

中肉中背、茶色の髪に青い目の欧米人にしては「標準的」な風貌で、あまり目立たない人だった。極めて謙虚で、十分に業績があったにもかかわらずとても腰の低い人で、本国より日本に来てからの方がよほど活躍している。NHKが賞をとった「シルクロード」、日本語では石坂浩二がナレーションをしていたが、海外で「シルクロード」が賞とったのはグレアムのお陰だ。

そのレベルの事は僕とは何の関係もないが、数回一緒に取材に行く事が有り、中でも一番思い出に残っているのは長崎取材だ。

それはちょうど軍艦島が歴史を閉じた年、1974年だった。金木犀の香りが記憶に残っているので、およそ9月末から10月上旬だったことになる。僕は入局して3年目。29歳だった。

僕は軍艦島を取材する為に長崎へ向かったのだが、この時すでに船の上のアパートの住人はおらず、廃屋だった。グレアムも同行してくれ、一緒に取材した。

素晴らしい体験をさせてもらったと思う。グレアムの指導のもと、これはすべてを自分で取材。録音も一緒に録り原稿も自分で書き上げた。「軍艦島30年」はそれなりの番組になった。

一方グレアムが長崎で作った番組は、長崎の伝統的な料理である「卓袱料理」をテーマに長崎の歴史を振り返ると言う趣向の秀逸な番組だった。

ネットには、「卓袱料理というのは中国料理や西欧料理が日本化した宴会料理の一種」と有る。当時聞いた話では実際には家庭料理なのだそうだが、急に頼んでも料理できる家庭もないので「花月」の様な料亭に頼むのが一番良いという事だった。大皿に盛られたコース料理を、円卓を囲んで味わう形式だった。

あの時は新米のアナウンサー/プロデューサーの僕は右も左もわからない中、必死にグレアムに喜んで貰えるテーマを探していた。

ラジオなのだから別に本当に実際に見に行く必要もないのでは無いかと思う人もいるかと思うが、そんなものではない。報道とは違うが、ただの番組でも実際に見聞きしたのと参考資料を元に作文したものでは雲泥の差がある。その事を自覚させてくれたのがグレアムでもある。

取材のために有名な料亭「花月」に向かった。

「花月」はそれ自体が素晴らしい歴史的な史跡で長崎の丸山に有る。説明によると「江戸時代、長崎の丸山は江戸の吉原、京都の島原とともに天下の三大遊郭とうたわれ栄えた場所で、花月(引田屋)は、寛永19年(1642)に誕生した。井原西鶴の作品にもその名前が挙げられる有名な遊郭で、江戸から幕末、明治と長崎を舞台に活躍した国際人の社交場だった。実際、有る部屋の床の間には深い刀の切り傷が刻まれていて幕末の一時期、坂本龍馬と海援隊もここに遊んだとの事だった。

「花月」では円卓を囲んで地元のヒストリアンである元新聞記者、時計作りの専門家が卓袱料理を食べながら長崎の歴史を振り返った。和食、中華、洋食(主に出島に商館を構えたオランダ、すなわち阿蘭陀)の要素が互いに交じり合っている不思議な料理で、確かにそこには長崎の歴史が見えた。お話の中でグレアムが喜んだのは長崎の人が外国人を呼ぶ言い方「オランダさん」だった。まだ覚えているのは料理の中程で餡子の菓子が登場した事で、確か口直しにという事だった。

僕が作ってもらった4人前の料理は本来は5、6万円もする。メクラヘビに怖じずというが、僕は女将に頼み込んで、全料理を、取材用に預かった1万円で賄ってもらった。長崎には気風の良い人がいた。

「長崎の食卓」は先日原稿と録音を見つけたのでいずれ音声も共にある日のコラムに載せたいと思う。

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