第11回:外国人の英語アナウンサーについて

以前ちょっと書いたことがあったけれど、僕が所属していた英語アナウンスのセクションはほぼ全員が日本人だったが、当然のことながら英語が母語のアナウンサーも数名いた。通常2名で、1人がイギリスBBC放送のプロデューサー/アナウンサー。もう1人はオーストラリアABC放送のアナウンサーだった。

制度のことをあまり詳しく書くと話が込み入ってくるので、簡単に書くが、まずこの話は、まだBBCに短波の日本語放送があった頃のことだと言うことで理解してもらいたい。BBC日本語放送はNHK英語アナウンスグループのものが出向いて放送に当たっていたが、一方BBCの方からも日本語放送の担当者等が日本に来て、我々の英語アナウンスのセクションで英語ニュースのアナウンスをしていたと言う形になる。

これは本当は少しおかしい。普段英語の放送をしている人間がBBCの日本語放送では日本語のアナウンサーの仕事する一方、普段は英語の放送などと全く関係がない人間が日本に来ると英語のアナウンスを担当すると言う仕組みだった。勿論日本語が母語の人間が、それも放送の専門家ではある人間が、日本語の放送を担当することにそれほどの問題は無いのかもしれないし、何しろ初代は大先輩の水庭進さんだったので日本語も歯切れ良く喋る方だったのでむしろ日本語のアナウンスにも向いていたかもしれない。BBCの方はというと状況は似ていて英語が母語の人の中にはシェークスピア役者だった人もいた。

もう一方のオーストラリアの交換については、もう少しすっきりしていて、NHKから日本語のアナウンサーがオーストラリアの短波国際放送の日本語放送にあたり、オーストラリアABC放送の英語の放送を担当しているものがわれわれの部署で英語ニュースを読むという仕組みだった。

僕が入局した頃のBBCの担当者は何らかの事情で誰も来ていなかったが、ABCの方は以前お話ししたと思うがブライアン・マキナニー(音から再現すると大体Brian Mackinnenyと綴るのだろうか)という人が来ていた。まだ入局したばかりだったこともあり、あまりよく覚えていないが小柄な髪の薄い50から60くらいの人で一家で日本に赴任していたようだが、それ以上は知らない。一年後くらいには本国に帰られたようだ。1971、2年頃だったろうか。それなりのアナウンスをしていたように思う、まだ僕が駆け出しの頃で、いくつかの貴重なアドバイスをしてくれたのはまだ覚えている。彼は僕のニュースが一個一個ハッキリしなかったので、新しいニュースの出だしは少し高めに強く読まなければ、と言ってくれた。

しかしオーストラリア交換関連で最も頭に残っているのはグレアム・ウエブスター(Graham Webster)さんで、彼からは一番学ぶことが多かった。グレアムの英語にはオーストラリア英語の訛りは全くなく、無色透明の素晴らしいアナウンスだった。元々お父様はニュージーランドの牧師でその辺りも彼がアナウンサーになったこととと関係があるかもしれない。

オーストラリアではブリズベン(Brisbane)を中心に全国中継でオーストラリア国内ではよく知られた人だったらしい。また非常に質素な人で、放送局の食堂で全く何の文句もなく食事をしていた。彼に会ったのは2度目の交換で、1度目はご家族と共に来られたらしいが、僕が会った時は単身赴任だった。日本が好きだったからの2度目の来日だったようだ。来てくださった事は新米の僕などには素晴らしい事だった。

アナウンスが素晴らしかっただけではなく指導も素晴らしく上手な人だった。ざっと10年前に亡くなられたが、好奇心旺盛、また人間としても尊敬できる人だった。ネットを検索するとまだ記事が見つかる。例えば下記のブリスベンのブログにはNHKに出向した事とかシルクロードのナレーションでNHKが国際的な賞を得たことなどが書いてある。

Graham Webster’s World of Music

長崎にお供で出張した事があるが、卓袱料理に託して長崎の歴史を辿った素晴らしいラジオ番組を作る過程に参加できた事は随分と光栄な事だと思う。グレアムについてはまたの機会に。

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