NHKのアナウンサーになりたいと言うのは子供の頃からの僕の夢だったが、英語アナウンサーになる事になるなどとは夢にも思っていなかった。日本に戻って来た時僕は26歳。日本に仕事は無いかと思っての帰国だったがまだ迷いがあった。現地に定着して日本史や日本語の教師になる考えもあったので真剣にその分野、つまり日本の文化や歴史の博士号が取れないものか考えていた。しかし、何しろ「インフラ」があまりに足りなかった。当時文系の博士号を取るためには専門とする東洋の言葉(僕の場合は日本語)とは別にヨーロッパの言語が一つ、通常フランス語かドイツ語のどちらかがかなり出来て、そしてもう一つの方は、少なくとも学術論文が読めるくらいのレベルでなければならなかった。また大学院では全科目でA -くらいを維持できなければ学問を続けることもできない。学術論文を書くにはまた並ならぬレベルの英語の力が必要だった。大学を卒業した時点でまだ在米七年だった僕には当時在学中の大学で全てをクリアするのは無理だった。U C L Aはそういう大学だった。
そこで発想の転換、まだ親族が複数いた日本でマスコミなどの分野で職を探し、あわよくば、つてを辿って夢のN H Kで何らかの形で仕事ができないか、などと考え、特にこれはというあてもなく日本に戻って来たのである。当時高度成長期に入りつつあった日本には特に選ばなければ商社などにはいくらでも仕事があった。しかし後から考えるとビジネスの分野に入らなかったことは幸いだった。すぐにクビになったと思うし、仮に語学要員などの立場で続けられたとして、最後は不満分子として会社人生を終わっていた可能性は高い。
しばらくすると某新聞社の記者をしていた遠縁のものから情報が入って来た、N H Kの国際放送が放送要員を(それもアナウンサーを)オーディションで採用するというのだ。夢のN H Kアナウンサー、しかし人生の約半分をアメリカで過ごした人間がアナウンサーと言う日本人でも三代江戸っ子でなければなれない職種に採用されるとも思えなかった。しかし遠縁のものにはN H K内部に親友がおりその部署に連絡までとってくれた。オーディションに出てこいと言う。後でわかったことだが本来のオーディションはすでに終わっており、どうやらせっかくアメリカから帰国してまで仕事を探しているのなら、どんなやつか首実験で一応会ってやろうと言うことだったらしい。遠縁のものも付き添いで彼の友人の職場に挨拶に行き、話をしている内に該当部署の方でも興味があるので一応顔を出してみたらと言うことになった。職場はN H K国際放送局欧米部と言う、今はもうなくなった部署だった。お役目だったのだろうか会ってくださつたのが、当時欧米部長だった水庭進さんだった。
水庭さんが唯一無二の英語の達人だと言うことは全く知らなかった。第一印象は温厚な紳士といった感じで、当時恐らくちょうど50歳くらいだったと思う。この後四十年近く懇意にしてくださり、93歳で一昨年亡くなられたときにはお別れの会までお供することになるとは思いもしなかった。この水庭さんこそが僕がN H Kに入るきっかけのオーディションを特別に開催し、及第点を出してくださった人で、まさに恩人である。お陰様で僕は部署こそ違え夢のN H Kのアナウンサーになれたのだ。
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