ぼくはNHKの英語アナウンサーだった。
そんな職種がNHKにある事をご存じの方はあまり多くないと思う。所属はNHK国際局欧米部。ラジオ短波放送の時代の職場なので国際局も、そして欧米部ももう名前が存在しない。おいおいこのあたりの事をお話しする事になると思うが、まずはNHKの英語アナウンスの職場に出勤した最初の日の話から始めよう。
1971年10月1日、当時まだ内幸町にあったNHKに出勤した。もう取り壊されて生命保険のビルになってしまっているが、昔のNHKは大理石の立派な建物だった。国際局はこの古風な建物の6階と7階に展開していたが、英語アナウンスの部屋は欧米部の一角にあり、屋上を改装した雑然とした大部屋だった。建物全体としては冷暖房完備だったらしいいが、屋上を改造したこの部屋は、夏は暑く冬は寒かった。今でも思うが日本は海外広報にあまり重きを置かない印象がある。この辺りもまたどこかでお話することになるだろう。
その他この日印象に残っていることをいくつか。
まず辞令をもらったこと。印象に残っているのは国際局総務部長の訓示で、「これからは英語アナウンサーと言えどもNHKの国内の職場で能力を発揮してもらうようになるであろうから精々日々研鑽にあたるように」と言った趣旨の話だったと記憶している。結局そうはならなかったが、感心したのは総務部長がアナウンサーの様に話した事。さすがNHK、と思って聞いていたが、後で聞いたらこの方はまさに元アナウンサーだった。
その後すでにオーディションで会ったことがある欧米部長の水庭進さんが正式に職場を紹介してくださった。水庭さんはオーディションで僕を採用してくれた恩人である。いかにも英国紳士といった人で、後で分かったが、かの有名な五十嵐新次郎の一番弟子の方だった。目をつぶって聞いてる限りでは英国人ではないかと思えるようなキングズイングリッシュを話し、また素晴らしいアナウンスをする人だった。もちろんこの時はそんなに凄い人だと言うことは知らなかった。後から考えるとよほど心配だったのか、親切にも各語班に案内をしてくれ、「豊田君は浦島太郎で右も左もわからないからよろしく頼む」と言うようなことを一つ一つのセクションで言ってくださつた。確かにその通り、右も左も分からなかった。
英語アナウンサー各位にもこの日会ったが、一番印象に残っているのは英語アナウンスには二世のそれも年配の人が多いということだった。戦前の放送は基本的には北米向けがメインだったのでアメリカ訛りの人が必要だったわけだ。顔と名前が必ずしも合致しないが、例えば新野寬チーフアナウンサーと言う名前が浮かぶ。新野アナウンサーは戦前のラジオ東京時代の放送も担当していた人で、残された数少ない戦時中の放送の音声資料の中で歯切れの良い英語で戦況のニュース読んでいるのを聞いたことがある。印象に残っているのはバリパパンと言う地名で、この景気の良い名前の破裂音が素晴らしかった。さてバリパパンで何が起きたのかはもう覚えていない。残念ながらお会いした時はあまりやる気が無いようで、僕が備品の英英辞典を見ていたら「この職場は努力しても報われないところだから辞書なんか見ない方が良い」と言われたのには驚いた。しかし確かにそこには一部の真実がある。
このような戦前の生き残りのような人が他にも若干名いた。もうファーストネームが思い出せないが、例えば小沢アナウンサーと言う方、とても人柄の良い人だったが、僕が入ってからしばらくして退職された。いわゆる帰米二世で立教大学を卒業した関係で友人に俳優の池部良がいた。職場に現れたこともあったそうである。紺のブレーザーが良く似合う方だった。
諸先輩についてはまたお話ししたいが、先ずはこれくらいで。
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