10月27日は高原文庫の立原道造企画展最後の日だった。紅葉も色付き軽井沢の良い季節だ。
豊田山荘の設計図をもう一度見に行った。
以前も書いた通り伯父豊田泉太郎は戦前の軽井沢で立原道造の知人となり、翻訳の拠点として別荘の設計を依頼した。1937年頃だった。残念ながら、戦争が本格化したため祖父福太郎の反対にあい、豊田氏山荘は結局建たなかった。
その後1945年春の空襲で伯父は青山の家を失ったが、設計図は戦火を避けて大切に保管してきた。
一旦立原道造記念館に預けられたが、記念館が廃館になった為、現在軽井沢の高原文庫が保管する事となった。
本当に残念なことだった。せっかく土地までも手当してあったのに、なんで道造が生きている間に建てられなかったのだろう。
展示されていた図面をもう一度見る。
これは色鉛筆の彩色が施された豊田山荘のサイドビュー。
その次が建物のミニレプリカ、
そしてこちらがロケーションの俯瞰図。ここは軽井沢東野澤原に祖父が所有していた500坪の土地の俯瞰図だ。
遠くに浅間山、近くに離山、矢印の指すのが山荘だ。旧中山道沿いの好立地である。手前左に見えるのは信越本線、今のしなの鉄道、軽井沢の駅にも近いが、周辺にはまだ自然が残っている。
東野澤原は実は今の雲場池の近くだと思われる。時間があったので紅葉を見に行った。最高に美しかった。
この湖のほとり近くに立原道造設計の豊田山荘は建つていたはずなのだ。
例えばこんな風に、
秋の日差しを浴びながら建っていたのだろうか。
もし完成していたら!立原道造が設計した数少ない建造物としての価値もさることながら伯父の人生も大分変わったことだろう。