第035回:立原道造と豊田氏山荘

1939 年、24 歳 8ヶ月で世を去った四季派の詩人立原道造は、1934 年夏、堀辰雄に 誘われて初めて軽井沢を訪れて以来亡くなる前年まで毎夏を浅間山麓で 過ごした。軽井沢滞在を通じ、『萱草に寄す』「浅間山麓に位する芸術家コロニイの 建築群」等の優れたソネットや建築作品を生み出した。

その一つ「豊田氏山荘」 は、 伯父豊田泉太郎(英文学者 阿比留信 1903~98) の依頼により、 立原が東大建築学科卒業直後の1937年6 月に制作した山荘である。設計図5枚と概観などのスケッチ5枚が現存している。

立原は軽井沢東野澤原に伯父が所有していた土地500坪にこの山荘の建設を計画した。ロケーションのスケッチも残っている。遠景に浅間山、手前に離山、近くに雲場の池、旧中山道沿いの好立地である。手前左に見えるのは信越本線、今のしなの鉄道、軽井沢の駅にも近いが、周辺にはまだ自然が残っている。

一体どんな建物だったのだろう。スケッチの山荘は二階建てで敷地内にテニスコートがあった。

次にモノクロのパース。手前にベランダ、煙突が見える。居間の隅には大きな暖炉が入る予定だった。角には女中部屋があり、吹き抜けのようなものはなかった。

次にカラースケッチ。建物は浅間山を背に南東に向かって建っているのが見える。あまり迫り出してはいないが、一階手前にはベランダがある。周辺の緑も描き込んである。伯父には何度か見せてもらったことがあるが、A-5くらいの大きさの青写真で、確か4つ折りにしてあったが、色鉛筆かパステルの色彩が鮮やかに残っていた。画才もあった立原直筆なのが明らかである。

残念ながら、戦争が本格化したため祖父福太郎の反対にあい、豊田氏山荘は結局建たなかった。 土地も戦後手放してしまったようだ。

伯父は1945年春の空襲で青山の邸宅を失ったが設計図は、 戦火を避けて大切に保管してきた。一旦立原道造記念館に預けられたが、記念館が廃館になった為、現在軽井沢の高原文庫が保管している。

特別展で見ることができる。

もし建っていたら!伯父の人生も大分変わったことだろう。泉太郎伯父についてはまたの機会に。