第065回:祖父豊田福太郎

古い写真を見つけた、写っているのは僕の祖父豊田福太郎だ。右側が次女の雪江(僕にとっては藤井のおばさん。おばさんは娘の郁子がアメリカ軍人と結婚したため一緒に南部ミシシッピー州にわたり、ミシシッピー州の老人ホームで亡くなった)、後は末娘の輝子(輝子おばさんはざっと5年前に100歳で亡くなった。)

この写真がどこで撮られたかは定かでない。朝鮮の釜山でとられた可能性もあるが、東京の青山で撮った可能性もある。

福太郎は長男の泉太郎が立原道造に設計を依頼した軽井沢の山荘を「このご時世に別荘でもないだろう」の一言でつぶしてしまった人だ。悪意があったわけではなく、生真面目だったのだと思うのだけれど、まったく残念なことだ。

どんな経歴の人だったのだろう。インターネットに上がっている昔の朝鮮半島の人名録を参考にコメントを加えていく。

豊田福太郎

とよだふくたろう (1869 一 1941)

東京市赤坂区青山南町5-36

明治2年5月 豊田泉右衛門の長男と して封馬厳原で生まれる。

明治12年(1879) 渡鮮(12歳)

[日清、日露戦争以前から朝鮮半島に渡っていたことになる(日清戦争は1895年から、日露戦争は1904年(明治37)から翌1905年まで]

明治17年 大阪濱田貿易商会の店員(17歳)

明治24年 支配人助役になる(24)

明治25年 入江町に穀物商店開業(25)

大阪濱 田貿易商会は日韓貿易会社に改称

明治35年に日韓貿易会社 代表者岡崎氏が内地に帰ると事業を継承、豊田商店と改称した。 (35)

明治39年東莱(日本語ではトゥライと読めるが、トネと読むらしい)に温泉旅館の蓬莱館を開業 (39)

明治41年 温泉に釜山市街から客を呼ぶ為に東莱一釜山間の軽便鉄道会社を創った。 [けいべんてつどう、英語ではnarrow gauge railroadと呼ぶ](41)

豊田氏は大正5年釜山商業会議所会頭 その他釜山米穀組合長、海産物組合長などの要職を歴任していま Lたが、全て辞職し東京赤坂区青山南町[現在東京都港区南青山]に居住を移し、旅館経営は支配人に任せていた。

[南青山の家は祖父の死後1945年3月の大空襲で全焼。青山墓地のすぐ近くだったらしい。屋根がきれいな瑠璃色だったのでターゲットにされたと言う話だ。]

[在韓人士名鑑]木浦新報社 (明治38年発行)