第036回:伯父、豊田泉太郎と立原道造の出会い

 

先週末、やっと軽井沢高原文庫を訪問、企画展の立原道造の展示を見てきた。立原が設計した豊田山荘は確かに展示されていて、模型もあったので撮影した。

伯父は当時を振り返ってこのようなことを書いている

 少年時代を海辺で育った私は後年海のブルーではなく、緑と岩と土と花の山地に一種のあこがれを持つようになり、アルプスを初め山地を訪れたのであったが、大正の末にたまたま友人の軽井沢の別荘にひと夏を過ごしてから軽井沢の自然、澄んだ空気、霧の匂い、落葉松の森や白樺と西洋人のたたずまいのかもし出す不思議な魅力に深くひかれ、山麓と信濃の土地を好むようになった。

 あれは大正十三年の夏と思うが、私は堀辰雄が芥川龍之介と連れだって峠道の方からつるや旅館の方へ来るのを見かけたが、これが彼を見た最初だった。その後昭和三年だったか佐藤朔の紹介で親しくつき合うようになった。

 私は昭和初年から毎夏異った谷間や小山の中に在る外国人の宣教師などの持ちものである山荘を借りて住んだが、それらの家は二階が二室か三室の寝室で、階下が居間と食堂にヴエランダという造りだったが、赤いベンガラ塗りの家などもあった。それらは文字通りサマーハウスで、冬は越せそうにもないものだった。

堀はそれらの家に大変興味を持ち、今年はどこなんだいなどと云ってはたずねて来て、その古ほけた家の部屋をひとつひとつ見て廻り、宣教師たちが残して行った古い家具に触れて見たり、ピンで壁にとめてある色刷りの絵などを仔細ありげに見入ったりしたものであった。

彼がこれらの家について何かと面白く話をしたものか、ある日突然三好達治が訪れて来て熱心に家の中や外を見て廻っていた。

 その後昭和七年頃から私は五、六年愛宕の森の中の家で過ごしたが、美しい針葉樹や広葉樹の木立ちが多く、小鳥の噂りも繁く、また外国人の山荘なども多い、軽井沢でも涼しい地域のひとつだった。

 立原道造との最初の出会いも愛宕だった。立原が初めて軽井沢を訪れた日で、彼は最初につるや旅館に堀をたずねたのだったが、堀は折悪しく東京に急用が出来たため行き違いになったわけだったが、堀がつるやに残して行った私への紹介状を持ってたずねて来た。それは、「急用が出来たのでちょつと東京に行きます。友人の阿比留信君(本名豊田君)に君達の案内を頼んで置きましたから、豊田君のところへおいでなさい」というものだったが、私の山荘までの道の略図も書かれていた。立原は澤西健との二人連れだった。その日は美しくよく晴れた日だったが、時刻が外国人の別荘ではお昼の食後の仮眠をとる頃合いで、しばらくヴェランダで静かな時を過ごしたが、小鳥のさえずりも繁く、樹間をリスがかけ廻ったりしていた。それから夕刻にかけて軽井沢を案内して廻ったのだったが、彼らは快い興奮に浸っているようだった。昭和九年の七月二十二日のことであったが、それから彼らは神津牧場へ出かけたらしく、「昨日はいろいろ御世話様になって有難うございました。雨後の道を霧をついて七時間半かかつて面白く歩き着きました。牛乳風呂にはいつて非常に元気です。よるは石油ランプの下で食事をしたりしました。犬が、よく吠えます。牛は、よるはすこしも鳴きません。……先ずは右、御礼かたがた、無事到着の御知らせまで。」という連名のエハガキが二十四日附でとどいた。

 立原道造とは最初の出会いの後も、彼が追分から軽井沢へ来る度に顔を合わせることも多かったが、いつも堀と一緒のことが多く、私たちは堀を通じての交わりのようだった。その後私の父の所有していた土地に山荘を建てようという話がもち上り、その設計を立原に依頼したところ、彼も喜んで引き受けてくれ、直ちにその設計にとりかかり、間もなく製図も完成したのだったが、折から大陸での戦争が本格化したため、このような時勢に山荘でもあるまいという父の意見で残念ながらこの計画は実現を見ることなく終った。昭和十二年のことだった。この実現されなかった設計図は私が大事に保管して来たが、昭和二十年五月の東京最後の空襲にも自宅の退避壕で幸いにも焼失をまぬがれた。現在は立原道造記念館に大切に保管されている。

 堀と立原はその後も、お互いに追分へまた軽井沢へと行き来しながら彼らの文学的日々を消化していた。軽井沢の自然を深く愛した堀は、その独自の感受性に よって自然の美しさとうつろいをとらえ表現したが、また同時に、この高原の古くて新しい町の人々のたたずまいや動静にも深い興味を持っていて、すぐれた情報収集家でもあった。その観察力には快い柔軟さと鋭さがあった。

(立原道造の”SOMMER HAUS”、別冊立原道造記念館No.2から)

 以上が伯父が残した当時の思い出である。伯父、豊田泉太郎は立原道造を最初に軽井沢を案内した事で文学史に名を残すこととなったが、実はTSエリオットやエズラ パウンドなどを日本に紹介した英文学者でもあった。ペンネームは阿比留信。不思議な名前だ。伯父の出身地と関係があるのだけれど、自分とも関係ある事なので、いずれご紹介したい。