第13回:クライブ・ヘールの事

前回、オーストラリア交換アナウンサーのグレアム・ウェブスターの事をお話ししたが、グレアムの後、全く同じ立場で交換制度の中で我々の部署にオーストラリアから来てくれたクライブ・ヘール(Clive Hale)の事はトチリの話の関連で話した事がある。

グレアムとは対照的に彼は本国で本当に有名なアナウンサーだった。丁度NHKのニュース9を読んでいたアナウンサーが外国で放送すれば「ああ、あの人か」と分かるくらいの人だったらしい。らしいというのは交換でやってきた彼はラジオジャパンでは看板アナウンサーとして特別の時間帯のニュースを読むわけでもなければ、得意のインタビューをするわけでもなかったからだ。勿体無い事をした。

Wikipediaによると、彼は極めてポピュラーなキャスターであったようだ。クライブは比較的早く2005年に68歳で亡くなった。癌で亡くなったとある。

本国のABC放送ではまだ彼を追悼するページが残っている。

https://en.m.wikipedia.org/wiki/Clive_Hale

日本派遣は結構狭い門だったらしく大アナウンサーだった彼に白羽の矢が立ったということだった。当時日本はまだ高度成長期だったと記憶している。1970年代から1980年代に本国で活躍していた彼はご褒美として一種のワーキングホリデーを楽しむために日本にやってきたというあたりが真相らしい。2年間の「お休み」の後本国で彼は骨董を査定する番組に登場する。

これもYouTubeで見られるがまさに彼の魅力を余すことなく表した番組だ。美術に興味があることは日本滞在中も明らかだったが、そこまでとは思わなかった。かれの経歴が公的なABCのホームページに載ったが、かれの最終学歴は美術学校と有る。

彼のアナウンスもいわゆるオーストラリアなまりはなかった。グレアムに比べると少し「クセ」が有り、速度も早すぎて短波の放送には残念ながら向いていなかった。今ならテレビ国際放送で活躍してもらえた事だろう。

最初に彼が放送局に現れた時、僕は泊まり明けか何かで偶然居合わせて誰もお相手がいなきものだから、一緒に館内の喫茶店でお茶を飲んだ。本国では大変光栄な事だったのだと思う。僕の印象は二つ、一つは、彼はアジア人に対する(そして恐らく全ての有色人種に対する)偏見が全くないという事だった。それは彼のマナーや言葉の端々に顕著だった。一説によるとラジオのアナウンスは多分に演技で作れるが、テレビの場合は本人のパーソナリティが真に見えてしまうと言うことだ。クライブの場合特に顕著にそれを感じる。

もう一つ覚えている事、彼が日本に本当に興味があり特に治安の良い日本を心底尊敬していた事だった。

彼が原稿をずっと先まで見る事が出来た事は既に書いたとおりだが、他にいくつか思い出す事では、放送の客扱いの鮮やかさ。お花見を取材に行った時彼を見つけて集まって来たオーストラリア人の観光客を追い払うのではなくて、インタビューをするフリをした事だった。マイクを突きつけて一言二言聞くと野次馬は安心してその場を引き上げる。流石だった。

上野の美術館取材の帰り、近くの洋食屋、精養軒だっただろうか、昼の時間だったので魚料理を頼んだら舌平目のムニエルが出てきた。魚ナイフとフォークの扱いが鮮やかで、西洋料理とはこう食べるものかと思わせた。直接関係がないようだが、アナウンスセンスとなんとなく関係があるように思える。

英語アナウンスも英語だけではなくセンスが大事の様だ。

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