英語アナウンサーににはなったものの僕は英語アナウンサーが何をする人なのかを正確に把握してはいなかった。何しろ僕がそもそもNHKに入りたかった理由はアナウンサーになりたかっただけなので急に「英語アナウンサーという職種があり、欠員があるからオーディションを受けてみるか」と言われても、実はメクラヘビに怖じずに近い話で、よくぞ飛びついたものだと思う。あとで聞くと英語アナウンサーが採用されたのは最初は戦後国際放送が再開された後だったが、その後放送時間が増えたりしたため中途採用が行われたようだ。これは丁度NHKの教育テレビが放送開始にあたって大量に人を採用したのとほぼ同じ頃だったと理解している。この時は大変な人気の職場だったそうで後に早稲田大学の教授になった人が「応募したが採用されなかった」と話しているのを聞いたことがある。
僕が応募した時はまだ人が足りない状態だったようだ。国際放送が戦前の様に特定の地域向けにのみ、一日一度か二度、30分から一時間放送していた時代と違い、放送を24時間全世界向けに実施する為には泊まり勤務も必要になり、一回の泊まり勤務に3名は必要だった。
僕はその様な背景は知らなかったが、アメリカに13年もいて、最終学歴がアメリカ大学卒の者がいくらなんでも日本語のアナウンサーになれるわけがない。とにかく何語で放送しようとNHKのアナウンサーになれたのだから良しとするほかはない。しかし、当時誰もはっきり教えてくれなかった英語アナウンサーの事が最近ではウキペディアを検索すると即座にわかる様になった。便利な時代になったものだ。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/英語アナウンサー
一言で言えば「英語アナウンサーとは、NHKの国際放送、NHKワールドの英語放送を担当する職員アナウンサー」ということになる。ここで言う国際放送は戦前は「ラジオ東京」(Radio Tokyo)と呼ばれ、戦後は「ラジオ日本」(Radio Japan)と呼ばれた放送を指す。
ウィキに載っている英語アナウンサーのリストを見ると戦前、戦中の「ラジオ東京」時代のそれと戦後の「ラジオ日本」のそれとでは、当たり前の事だが、見えない壁の様なものがある事が分かる。
戦前、戦中のリストには戦後特に英語教育の世界ではよく知られた名前が散見される。そのトップを飾るのは五十嵐新次郎で戦後、早稲田大学で英語の教育者として著名な人だったが。戦前も知る人ぞ知る存在で影響力は大きく、英語アナウンサーとして戦後活躍した水庭進は五十嵐の一番弟子であった。五十嵐と同じく平川唯一は戦後英語教育では大きな存在であり、特に彼が主宰したラジオ英語講座のテーマ音楽と歌詞、「カムカムエブリボディ」、は当時の語り草だった。戦後すぐアメリカに渡った僕の様な者にもテーマソングのメロディーと歌詞は忘れがたいものがある。例外的に戦後も英語アナウンスを続けたのは前回名を挙げた小沢勇、新野寬の日系二世のアナウンサー2名だけだったが、戦前の国際放送には東京ローズアイバ戸栗の様に二世は数多くいた。対照的に戦後の英語アナウンサーの特徴は戦前と違って日本人で英語を日本で学習した者が多く、英語の種類で言えばアメリカ英語よりイギリス英語の発音をする者が多い。戦後日本はアメリカに占領されていたため英語教育の主流はアメリカ英語だった筈だが、戦後の国際放送がイギリス英語が中心だったのにはいくつかの理由が考えられる。
まず基本的には戦前の二世アナウンサー中心の時代とは一線を画したいという強い意識が有ったこと、もう一つはリーダーであった水庭進の英語がイギリス英語であったことも大きな理由だと思える。水庭は僕に対しては「良い英語は良い英語だ」と言っていたが、本音は良いイギリス英語が一番良い英語だと思っていたのだろうと思う。
ウイキの戦後の英語アナウンサー53名のリストを見ると懐かしい名前が見えるが、その内入局以後面識がある英語アナウンサー46人の内15人は残念ながら亡くなられ、実際まだ放送しているのは5名程度だ。局アナとして英語アナウンサーが国際放送をになった時代は国際放送の主体がテレビ放送になった時点で終りを告げたと言えるだろう。
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