第10回:アナウンサーはトチらない

 遥か昔、僕がまだ子供の頃「これがシネラマだ」と言う映画があった。大画面でスタンダードな画像の3倍の広さの、当時としてはとてつもなく大きな映画画面だった。シネラマと言うのはもう死語になっているかも知れないが、Goo辞書によると「ワイドスクリーン映画の1つ。3台のカメラで同時に撮影したフィルムを、3台の映写機で湾曲した横長のスクリーンに映写して、立体的な画面を得るもの。スクリーンの縦横の比率は1対2.88。1952年、米国で実用化。商標名。」と書いてある。シネマ、映画、とパノラマ、をかけてできた造語の様だ。

 手間がかかり過ぎてか、シネマスコープは生き残ったが、シネラマは「これがシネラマだ」以降数十本は作られたようだが、その後は消滅してしまった。僕はまだ小学生高学年の頃、東京の銀座だったか、あたりまで出向いて「これがシネラマだ」を見た記憶がある。僕がアメリカに渡ったのが1958年だから、そのおそらく直前、1956,7年頃だったと思う。まだ最先端の技術で日本の劇場で上演された始めの頃だった。立体映画ではないけれど大画面となると臨場感があってシネラマはもう一度見たいものの1つだ。

 「これがシネラマだ」のトップは確かローラーコースター、物すごい迫力だった。後は確かコロラド川の川下り、またいかにもアメリカと言う感じのカウンティフェアの映像もあったように覚えている。「これがシネラマだ」は「これがアメリカだ」と言っても良い、まさにアメリカ宣伝映画だったのだろう。

 ところでこの映画はアメリカの映画だったので元のレーションは当然英語だったわけだが、日本で上映されるにあたってナレーションの吹き替えをやったのは当時NHKのアナウンサーで名前はもうはっきり覚えていないけれど、たしか今福と言うアナウンサーで、解説のパンフレットの中で「自分はトチり一つなくナレーションを終えた。そして収録をしていた、アメリカ人の技術者が一様にその技術を褒め称えた」と言うようなくだりがあり、NHKのアナウンサーは、決してトチらない、と言うようなことが書いてあったが、一体どうすればトチらないで読めるのだろう、と大いに感心したことを覚えている。

 これについては僕自身アナウンサーになったので思うのは、基本の基はpreparation、つまり 準備しか無い。僕の記憶に残る最も優秀なアナウンサーだったグレアム ウェブスター (Graham Webster )氏は、オーストラリアABCのアナウンサーで交換制度の中でラジオジャパンのためにニュースを読んでくれたアナウンサーの一人だったが、口癖の様に Prepare, prepare, prepare「準備、準備、準備」と言っていた。つまりニュースとかナレーションは事前に繰り返し下読みし、徹底的にチェックすること、これが「王道」だ。しかし、芝居の台本ならいざ知らず、ナレーションは毎回内容が違うし、ニュースも当然毎回違う。もちろん決まった語彙やフォーマットがあるのでそれを絶えず読んでいると言う事は、毎回中身が違っても結局は少しずつ読みの質も上がっていくはずなのだけど、それにしても限られた時間の中で準備をするニュース、そしてさらに臨時ニュースなど、スタジオに入ってから急に渡されたニュースはそう簡単に読めるわけではない。

 しかし一流の読み手はそんなことにめげてはいない。彼らは普通の人とは違うのだ。いくつかの例を思い出すけれど、まず僕の大先輩の水庭進アナウンサーは、何でもいちど読んだら、ずっと覚えているほど記憶のいい人だった。これは役に立つ。そしてもう一つ、1行先を絶えず見ていると言っていた。そんなことは普通は無理で、僕などそんなことはできない。

 全く同じようなことをオーストラリアの交換アナウンサーのクライブ ヘール(Clive Hale)氏が話してくれた事がある。ニュースを読んでいた時、急に原稿を渡され、その原稿の中に、それも下のほうに、自分の知らない単語がある事に気がついたと言う話をしていた。もちろん知らない単語がある事がわかったからといって急に読めるわけではないけれど、それほど早くから見えていると言う事で、やはり先程の水庭進アナウンサーではないけれど素晴らしいアナウンサーは手元だけではなくてだいぶ先が見えていると言うことが言える。

 これは、人生についても言えることかもしれない。凡人は見えないが、天才には、先が見えるのだ。

(1759文字)

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