第031回:沖縄戦の事

 6月はなんとも言えない憂鬱な月だ。父が沖縄南部で戦死したのは1945年の6月だった。

「1945年4月1日、米軍は沖縄本島中部の西海岸に無血上陸した。日本軍は本土防衛のために持久戦に持ち込んで時間を稼ごうとし、中南部で迎え撃つ作戦を取った。だが、米軍は日本軍を圧倒。首里にあった日本軍司令部は5月下旬に本島南部へ撤退し、そこに避難した住民は「鉄の暴風」と形容される海、空、陸からの激しい攻撃にさらされた。 」(デジタル毎日)

父が所属した兵站部隊も軍司令部と共に首里から本島南部へ撤退、艦砲射撃の中父は戦死した。しかしその場所も定かではなく、遺骨もない。父の墓の中には沖縄のサンゴのかけらが入った骨壺が納めてある。

沖縄戦終了後75年になる今年、大手の新聞の記事には日本兵が住民にひどいことをした、と言った趣旨の記事が目立つ。例えば75周年の日の朝日新聞には安元勝子さんと言う方の沖縄戦についての記事がある。

 「沖縄の日本軍が壊滅状態となった1945年6月を過ぎてからだった。本島北部の山中にはなお、逃げ続ける日本兵や住民がいた。安元さんは米軍にとらえられた後、すでに収容所も出て、疎開先の集落に身を寄せていた。

 あるとき、地元出身の英語を話せる男性が、日本兵に追い回されて首を切り落とされたのを見た。別の日には、年配の男性が山に向かって、逃げている住民らに投降を呼びかけると、どこからか現れた日本兵に刺し殺された。

 日本軍は、軍人と民間人が入り乱れた戦場で機密が漏れるのを警戒していた。沖縄県史や市町村史には、沖縄の方言で話したり、米軍に保護されたりした住民が日本兵に「スパイ」とみなされ、殺されたという証言が多数残る。」

安元さんは今年5月入院、沖縄戦アンケートの取材を受けた。

 「気持ちの隅っこに追いやっていたものを、やっとはき出せた」。安元さんは証言を終えると、記者にそう話した。毎年、姉のための慰霊祭に出席してきた6月23日。今年は病室で手を合わせることになる。生き残った自分に託された役割を果たせた気がしている。」(デジタル朝日)

日本軍のこのしわざはなぜだったのか、沖縄戦に詳しい研究者によると、住民が米軍に保護される中、情報が漏れるのを恐れた日本軍が「住民がスパイを働いているので警戒せよ」という趣旨の文書を出していたことが軍資料でも確認できる。スパイ視によって虐殺されたり、投降できずに自決を強いられたりしたという証言は数多くあるが、研究者は「当時言われたスパイは本来の意味ではなく、『裏切り者』というレッテル貼りに過ぎなかった。日本軍が戦況悪化の原因をスパイのせいにし、その矛先を沖縄の人々に向けた」と指摘する。

今年はこの様な記事が多い。

沖縄戦から75年、沖縄の生き残った人達が「遺言」の様に当時の事を語り伝える事は立派な事だと思う。しかし日本軍があたかも沖縄の人を殺害しに行ったように伝えられるのは全く心外だ。日本のために戦死した父のような人もいたことをまずは取り上げて欲しかった。

僕は父がまだ生きていた1945年3月に生まれたが、沖縄にいた父は僕の顔を見ることもできなかった。父の「遺書」は沖縄から送った母への手紙。Kindleになっているので興味のある方は是非読んでほしい。

沖縄より愛をこめて~戦場からの手紙~

(1350文字)

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