第048回:軽井沢の秋

軽井沢を知る人は必ず見たことがあるこの光景。避暑地としての軽井沢は、写真に胸像が映るカナダ生まれの宣教師アレキサンダー・クロフト・ショー氏が1886年(明治19年)、偶然訪れた事で始まった。ショー氏は軽井沢の美しい清澄な自然と気候に感銘し、周りの人達にそのすばらしさを推奨し、彼自身小さな別荘を建てた。写真に見える礼拝堂の隣に復元されている。それまでの軽井沢は碓氷峠を下ったところにある宿場町だったが、明治になってさびれかけていた。

胸像を左手に見ながら碓氷峠の方面にさらに登って行くと清流がある。矢ヶ崎川である。

思い起こすと今からざっと50年前、日本に戻ってきてまもなく伯父の豊田泉太郎と一緒にこの道を歩いたことがあった。

以前豊田山荘の事で書いたが、伯父は戦前軽井沢を好んで訪れた。当時を振り返ってこう書いている。

 少年時代を海辺で育った私は後年海のブルーではなく、緑と岩と土と花の山地に一種のあこがれを持つようになり、アルプスを初め山地を訪れたのであったが、大正の末にたまたま友人の軽井沢の別荘にひと夏を過ごしてから軽井沢の自然、澄んだ空気、霧の匂い、落葉松の森や白樺と西洋人のたたずまいのかもし出す不思議な魅力に深くひかれ、山麓と信濃の土地を好むようになった。

 あれは大正十三年の夏と思うが、私は堀辰雄が芥川龍之介と連れだって峠道の方からつるや旅館の方へ来るのを見かけたが、これが彼を見た最初だった。その後昭和三年だったか佐藤朔の紹介で親しくつき合うようになった。

この辺は伯父にとっても思い出の多い場所だったようだ。まっすぐ行くと伯父が芥川龍之介と堀辰雄を見た碓氷峠から下ってくる道なのだが、橋のたもとを左手に曲がると伯父とともに見た室生犀星の記念碑がある。

記憶をたどりながら道を歩く。

確かにこの道だ。秋の景色が展開する。

そして唐人ニ体が現れる。

そして詩碑。

我は張りつめたる氷を愛す
斯る切なき思ひを愛す
我はそれらの輝けるを見たり
斯る花にあらざる花を愛す
我は氷の奥にあるものに同感す
我はつねに狭小なる人生に住めり
その人生の荒涼の中に呻吟せり
さればこそ
張りつめたる氷を愛す
斯る切なき思ひを愛す

僕は当時27歳。あの時から48年経った。あれほど軽井沢が好きだった伯父ももういない。僕も75歳の高齢者だ。

しかし犀星の詩碑は残っている。

人生は短く、芸術は永遠だ。

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