第062回:アメリカの中学と高校

 1958年僕は1年通った東京の中学校を後にしてコロラド州コロラド・スプリングスに移住した。再婚した母とそのアメリカ陸軍下士官の連れ添いとともに最初はモーテル暮らし、そのうちに小さな家に引っ越して、日本から送った家財道具を受け取り、日常生活らしきものが始まった。食べ物の笑い話とかいろいろあるが、とりあえず今回は、アメリカで通った中学と高校のことを書きたい。

日本の中学校からアメリカの中学校へ移って色々と戸惑うことがあった。アメリカではコロラド州コロラド・スプリングス、マサチューセッツ州レミンスター、そしてアメリカの軍人だった養父の移動の関係で通った西ドイツのアメリカンスクールと3つの公共の学校を転々としたが、コロラドスプリングス以外は今のところご縁がない。

僕ももうすぐ76歳。そしてこのコロナの最中だから、おそらく後の2つの、特にドイツのアメリカンスクールをもう一度見る事はないだろう。そこで特に懐かしいコロラドの中学校を数年前にもう一度見ることができたのはなかなかの感激だった。

あの頃のアメリカの子供たちにとっては僕は初めて見る日本人だったのだと思う。1958年といえば戦争が終わってからまだ13年しか経っていなかったわけで、ついこの間まで敵だった日本人をもっと差別しても不思議ではないと思うのだけれど、その理由でもろに虐めようとしたり、差別をすると言う雰囲気は全くなかった。アメリカは戦勝国だったのでゆとりがあったのだろうか、大統領はアイゼンハウワーだったと思うが全体に極めておおらかだったと思う。今のアメリカとは全く違う。

とにかく最初の日にロッカーを貸してもらったのは驚いた。こんな立派なロッカーが何で必要なんだろうと最初思った。その理由の一つは教科書だと思う。同じく貸し出された教科書は日本の教科書に比べると何倍も立派で重かった。これを絶えず持って歩くわけにはいかない。その立派な教科書は学校が貸してくれるので自分で買う必要は全くなかった。ただし問題は教科書もこれくらい立派になると学校としては一度購入すると少なくとも10年ぐらいは使い回しするようで、支給された教科書によってはだいぶ薄汚くなっていたのはあまり有り難くなかった。

おそらくほとんど英語がわからなかった関係だと思うけれど、コロラドでは一体どんな本を使っていたのかもしっかり覚えていない。次のマサチューセッツ州の中学校で使っていた教科書についてはしっかり記憶があるが、紙も艶のある立派な紙で日本の高級な辞書位立派だった。

おそらく僕はそれほど気にしないのだけれど確かに1958年に僕が通っていた日本の木造の中学校はアメリカの中学校に比べるとだいぶ見劣りがした。おそらくコロラド・スプリングスと言うところが特別に寒いところだったと言うことも関係あるのかもしれないけれど中学校の建物は立派だった。そしてそれは他の僕が当時通った学校についても言えることだ。今振り返ると見えるのだけれど一般論としてはアメリカというところでは全て最高の物は私立で貧乏人の僕の様なものが通えるのは公立の学校しかなかった。しかし、それでも当時のアメリカは圧倒的に豊かだったのと、幸運にも通った学校が公共教育にお金を使う州の学校だったという側面もあるようだ。

次回は結局8ヶ月しか滞在しなかったコロラド・スプリングスの中学校の後転校したマサチュウセッツ州の中学校のことを書きたい。

コロラド州コロラドスプリングスにあるノースジュニアハイスクール前にて

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