第063回:マサチューセッツの中学校

 1958年コロラド州コロラド・スプリングスからマサチューセッツのLeominsterレミンスターと言う小さな町へ移住した。スペリングの通りレオミンスターと言わないところが面白いが、この辺りはNew Englandニュー・イングランドなのでイギリスの町の名前を発音も元のままに残したものと思われる。(コロラド・スプリングスにはまだ一年も住んでいなかったので全く急だったが、母が再婚した相手が米陸軍の下士官だったため命令とあらば仕方なかった。町の周辺にあった基地に転勤になったと了解しているが、改めて地図を見たが軍事施設のような名前は見当たらない。あれからかれこれ60年経っているのでもうなくなってしまったのかもしれない)レミンスターは典型的なニューイングランドの街で中央には広場がありその四角い土地をtown squareタウンスクエアと言った。周りには市役所、教会、公立図書館などがあった。町はなかなかきれいだった。冬はsnowboundスノーバウンドと言っていたが日本の雪国のように結構雪が積もったけど、秋は紅葉ともまた違うメイプルつまり楓の森が全て黄色になる素晴らしい光景を見ることができた。

僕が通うことになったのが町の中心部にあったこの町の中学校で名前はMay A. Gallagher Junior High School メイ・エー・ギャラガー・ジュニアハイスクールといった。残念ながら廃校になってしまったらしい。地図にもない。この中学校は女性が校長だった。貴婦人のような雰囲気の方で今思うとなんとなくイギリスのサッチャー夫人の様だった。

ところで品の良い校長先生の引きいる素晴らしい学校だと思ったのだけれど、到着早々問題が起きた、今でも思い出す。それはこの学校はユニフォームこそ無かったけれどあまりラフな格好は許されなかったのではじめて学校に行った日、コロラド・スプリングスのノース・ジュニアハイスクールと同じ格好で出かけたところ校長先生に厳重注意されてしまった。特にズボンの方が問題で、その日履いていたLevi’sリーヴァイズのブルージーンズはこの中学では労働者の服装として禁止されていた。しかし同じ怖い校長先生のおかげで僕はクラスと一緒にボストン周辺を見学することができた。ただし危ういところで参加できないところだったのだ。実はこの日はバス代を持参しなくてはならなかったのだけれど英語の関係で聞き取れていなかったらしく、当日は完璧に忘れ物をした形になってしまった。どうしようかと思っていたらなんと服装のことでうるさかった校長先生が立て替えて下さった。よほど可哀そうに思ったのだろう。これも今でも覚えている。

バスツアーではボストン美術館を訪問したことが一番印象に残っている。確かVincent Van Gogh ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの郵便配達夫の肖像画、それとPaul Gauguinポール・ゴーガンがタヒチで描いた横長の力作「我々はどこから来たのかそしてどこへ行くのか」も印象に残っている。また人が少ないので絵にかなり近づくことができたのも素晴らしかった。その他にも記憶に残っているのが日本の美術工芸品で当時は全く知らなかったが、この美術館こそが日本の美術工芸品を保存するのに力があったErnest Fenorosaアーネスト・フェノロサが彼が集めた作品を送り届けた先だったと言うことだった。しかし、残念なことに当時のボストン美術館の日本美術展示空間はとても薄暗かったことを覚えている。なんでこんなにたくさんの美術工芸品がこんなに勿体無い形で保存されているのか理解ができなかった。

その後Emerson エマーソンが住んでいたConcordコンコードの家を見学したこと、それからボストンでは議事堂も仲間と一緒に見に行った。そして港に止まっていた古い帆船。名のある船で写真まで撮ったのに今手元にないのが残念だ。

学校の先生方についてはすでに別のところでラテン語のメアリー・ワトソン先生については書いたけれどこの先生の何が素晴らしいと言ってつい1年前まで日本でラテン語など何も勉強していなかった日本人の男の子にも馬鹿にせずに他の子供たちと全く同じ学習をさせてくださったこと。子供の言うことだからと言って馬鹿にしない、そういう姿勢は非常に新鮮だった。他の先生方についてもまた書きたい。

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