第064回:マサチューセッツ州レミンスターのジュニアハイスクールの先生方の思い出

先週レミンスターの中学校の先生方のことを少し書いたが、この中学校にはいろいろな思い出がある。

一番好きな先生と言えばメアリー・ワトソンMary Watson先生。ラテン語の先生だったが、この先生については以前書いた。次に思い出すのがホームルームの先生だったギニティーGuinity(綴りは定かでない)先生、ギニティー先生は英語の先生だった。その関連だろうか、ホームルームの時間になると英単語の書き取りをした。書きとった単語一つに付き文章を一つ書いてこいといいうのは英語がほとんどわからなかった当時の僕には過酷な課題だったが、当時日本で購入したばかりの研究社の大英和の例文があったのでずいぶん助かったのを覚えている。付帯して筆記体の文字を綺麗に書く練習、綺麗な横文字を書く事をペンマンシップpenmanshipと言ったが、書き取りの文字はペンマンシップに則って美しくなければならなかった。今どきの日本の学生諸君が読み取れないと言う、まさにそういう文字を練習していたのだ。美しく書けた文章を見たければアメリカの建国宣言 The Declaration of Independence 等をみると良い。文章もそうだけれど署名した人たちの文字もきれいな筆記体だ。

ところで、普通の英語の先生ではないけれど結構長時間英語の指導をしてくださった先生がいて、音楽とか体育などのあまり必要とされないクラスから特別にその先生のクラスに出向いてかなり初歩的な英語を教わったことを覚えている。他に生徒は2人、1人はイスラエルから来た女の子でもう1人はドイツから来た女の子だった。学校は、白人だけれどまだ英語があまりできなかったこの2人と僕でちょうど3人の特別クラスを編成してくれたのだ。このクラスの英語の先生は英語が母語ではなくて学習した人だった。ギリシア人で、何年か前にアメリカに来て学位を取った男性だった。博士号を持っていたのを覚えている。名前も極めてギリシャ的な名前で間違っているかもしれないけれど例えばパパドプロスPapadopolosと言うような名前だった。そう多くはないが、アメリカにはギリシャ系の人がいる。著名な例としては有名なジョージ・チャキリスGeorge Chakirisがいる。ウエストサイドストーリーWest Side StoryではプエルトリコPuerto Rico 移民のギャングのリーダーの役を演じた小柄な俳優だ。後に日本でラフカディオ・ハーンLafcadio Hearn の役を演じた事でも記憶に残っている。NHKの番組だった。実際ハーンも半分アイルランド、半分ギリシャの血が流れていたので、この配役はなかなか良かったと僕は思う。他にも政治家で確かニクソン大統領の頃、スピロ・アグニューSpiro Agnewと言う人がいたけれど、彼もギリシャ系だった。アグニューはおそらくギリシャ語の火の意味があるのだと思う。脱線したついでに他にもバイデン大統領の広報担当の女性の名前はジャン・サキJen Psakiと言うがサキはギリシャ語の魚と言う言葉が語源らしい。赤毛の彼女はギリシャとアイルランドの血が流れているらしい。占いで魚座のことをパイシスPiscesと英語で読むが全く同じ語源である。フィッシュfishも語源は同じなのかもしれない。

ギリシア人の英語の先生に話を戻すと、実は、この先生は英語はもちろんできたのだけれど、やはりギリシャのなまりがあって、それだけを取るとあまり素晴らしい先生とは言えなかったが、夜間のアメリカ国籍をとりたい人のための英語のクラスを担当していたので外国人に英語を教えることについては専門家だった。1960年代、アメリカにはまだヨーロッパからの移民が多く、マサチュウセッツ州は当時の僕には分からなかったけれどアイルランド系やイタリア系の人が多数いた。流石に日系人は少なかったが、そのためか差別は感じなかった。

他にも、思い出す先生の中にはやはり英語の先生で僕の発音を一生懸命矯正してくださった女の先生がいた。それまで僕はエルとアールの発音が苦手で街に鍵を買いに行った時に何度ロックlockといっても通用しなかったのを覚えている。困ったことに当時住んでいた通りはパールストリートPearl Streetと言ったが、パールと言う言葉の中にはエルとアールの両方があるので住所を言う時に相当困った。パール/真珠通り。そういえば真珠湾、パールハーバーPearl Harbor も元の英語で発音するのは相当難しい。

他には歴史の先生を思い出す。名前は思い出せないけれどなんとなくブルドックのような顔の先生だった。なかなかユーモアに長けた方で今でも思い出すのは、僕が割合とおしゃべりだったのでわからないなりにもすぐ隣の子とを話をして笑っていたのが先生の目に留まって叱られたのだけれど、その叱り方が面白かった。彼はこう言った。「沖人君、君は僕を笑っているのかい、それとも僕と笑っているのかい」Okito, are you laughing at me or with me、と言ったのだ。皆がどっと笑ったのを覚えている。ただただ学生をやっつけるのではなくて上手にユーモア込めて反省を求めた良い方法だったと思う。

コロラド州の中学校でもそうだったけれど、英語ができない中で1番よくできたのは絵画のクラスだったが、絵画の先生も僕の持っている能力を生かそうとしてくれた。それからもう名前も覚えていないけれど学生アドバイザーstudent counselor の男の先生がいて、当時僕は支給された教科書にたまたまハーバードHarvardと書いたカバーをかけていたのだけれど、馬鹿にしないで「良い目標を持っているね」と言ってくださった。

以前も書いたけどアメリカの教科書は自分で買うのではなくて学校が支給してくれるのだが、とても立派な硬い表紙の本だったから、10年後に廃棄するときにも教科書によってはまだまだ使用可能な状態だった。そういった教科書が除籍になった後で僕にくださった先生も複数いた。今でもまだ何冊か持っている。ラテン語の教科書、英語の教科書、中を見ると立派な紙にふんだんに写真やイラストが使われていた。レベルが極めて高いので、到底追いついていくことが難しかったが、あの頃は夜も寝ない位頑張って毎日の宿題を終わらせていたのを記憶している。

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