第066回:祖父豊田福太郎語る

思いもよらない資料がオンラインで出てきた。国立国会図書館所蔵の書籍に祖父の名前が出ていたので検索したところ「在韓成功之九州人」の章のひとつが祖父福太郎についてである事が分かった。

丁度40歳になった時に受けたインタビューを中心に構成されている。これを読むと祖父の成功の背景が本人の言葉で明らかにされる。

原文を引用しながらわかる範囲で解説していきたい。

「百五十円の資本で五千円の利益」をあげた話[今のお金でざっと300万円が一億円になったと言う事]

私は長崎県対馬国厳原国分町厳原町の者で、明治2年[1869年]4月生まれ、本年恰度40歳になります。[いづはらまちは、対馬の南部にあった町、現在対馬市の一部]

愚父は泉右衛門と申しまして、王政維新[明治維新?]の際より釜山に来往していたそうです。[釜山は韓国第二の都市、古くから対馬と交流があった]

私が釜山に移住しましたのは明治12年[1879年]すなわち私が12歳の時でした。

17歳から浜田商会の店員になりまして、24歳に支配人助役に挙げられ25歳まで勤務しました。

京城[ソウルの旧称。日本統治時代に用いられた。]の淵上貞助君ですね。彼も私たちと共にその頃浜田商会にいたのです。近頃龍山[釜山中心地にある山で周辺に日本人街があった]居留民団長になったそうですナ。

それから25歳の時に入江町[ 釜山の日本人居留地]に穀物商店を開きました。これが私の独立営業の元です。もっとも当時資金はわずか250円しかなかったです。

そして私の他に店員として2名おりました。随分一時は混乱しました。それはお話の外です。何事でも成功するまでは容易ではありませむナ。

幸ひ23年間に5000円ほどの利益を得ました。それが私の身上の基ですよ。

話は後に戻りますが、浜田商会は後に日韓貿易会社と名を改めたです。然るに元山支店支配人の木村庄兵衛君が死去をする。[元山市ウォンサンし、日本語読み、げんざんし、は、現在北鮮の道庁所在地]

その後後任者として釜山支店支配人佐藤直太朗くんが元山に移転する。続いて同会社を解散することになりました。

そこで私が同会社の後を継承しまして、豊田商会と改め、以来今日まで引き続き貿易業に従事しています。

(続く)

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[明治時代の一円の価値は位だったのか。小学校の教員の初任給が初任給およそ10円だった、今の初任給はざっと20万円位とするならば一円は今の2万円位にも相当したのではないかと考えられる。そうすると当時の150円は今の300万円、5000円は1億円に相当する事になる。]

[祖父が韓国に渡ったのは弱冠12歳、つまり制度は違うが今なら小学校卒業の年齢であることが分かる。そして朝鮮半島に渡った理由は祖父の父の泉右衛門が釜山に行き来していたからで、よく言われることだが、対馬の成人男子はその多くが釜山に職を得たとのことだ、背景には韓国の出島ともいえる釜山の倭館の存在があることは言うまでもない。]

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