第071回 :川端康成別荘

 

川端康成別荘(軽井沢新聞から)

以前伯父豊田泉太郎が軽井沢に詩人建築家の立原道造に別荘の設計を依頼したが戦時中であったため結局建たなかったと言う話をコラムに書いた。極めて残念なことだったが、その次に残念なのはいちど建つた歴史ある別荘が取り壊されることだ。

小説「伊豆の踊子」などで知られ、ノーベル文学賞を受賞した川端康成(1899~1972年)の創作活動の場にもなった長野県軽井沢町の別荘解体されてしまったようだ。

軽井沢新聞は「住民有志が保存運動を展開し、町は移築して保存する道を模索していたが、所有者側の了解を得られず、6日の町議会で藤巻進町長が「保存断念」を表明した」と報道していた。

町や関係者などにも事前の情報はなく突然の話だったようで、町内の文化遺産保存などに取り組む6団体が、「保存を求める請願書」を町議会に連名で提出したりしたのだが、とうとう間に合わなかったようだ。

川端康成は軽井沢に2つ別荘を持っていたそうだけれど、堀辰雄が一時借りて「風立ちぬ」を執筆した最初の別荘は既に早々に取り壊されていたので、これは2番目だった。今回取り壊された別荘が建っているのは、明治・大正期には西洋人の別荘が多く建てられた万平ホテル裏手の通称「ハッピーバレー」と呼ばれる閑静な別荘地で、同別荘は木造2階建て(約140平方メートル)、川端が1940年に英国人宣教師から購入したとされる。

かれこれ5年位前になるが、軽井沢高原文庫(軽井沢町)の大藤敏行副館長によるウォーキングツアーに参加した時、最初に見たのは室生犀星の立てた文学碑、そこから歩いて帰ってくる途中だったと思うが、この別荘の前を通った。木がうっそうと茂っていたけれど、その昔はほとんどなくて浅間がきれいに見えていたそうだ。

軽井沢新聞によると川端はこの別荘では軽井沢も登場する小説「みづうみ」や随筆「秋風高原」などを執筆し、上皇ご夫妻が皇太子ご夫妻時代にお忍びで訪ねられたこともあるという。

 さらに軽井沢新聞によると川端の死去以降、別荘は養女が長らく所有していたが、神奈川県の不動産会社に6月、所有権が移転した。「ノーベル文学賞受賞の文豪が生前利用していた別荘地」などとして売りに出され、同社ホームページでは「成約御礼」と記載。

9月から解体作業に着手すると近隣住民に伝えられていた。

もう解体されてしまったわけだけれど、残念なことだ。個人的な意見だけれど、軽井沢の価値のかなりの部分がこういった古い別荘がいまだに残っていることにあるので、別荘を壊してしまったら軽井沢が軽井沢でなくなってしまうのではないだろうか。

もちろん保存すると言う事は大変なことだと言う事はよくわかっている、実際軽井沢高原文庫の中庭には堀辰雄が1時住んでいた別荘が茂みの中に立っているが、かなり痛んできている事は確かだ。

堀辰雄山荘「1412番山荘」 – 旧軽井沢釜の沢から移築。彼の小説「美しい村に登場。

敷地内には他にも移築された別荘がある。

野上弥生子書斎兼茶室 – 北軽井沢の法政大学村から移築。1933年(昭和8年)築

通りを隔てた反対側の敷地には浄月庵がある。これは- 有島武郎の旧別荘。木造二階建てで、旧軽井沢の三笠にあった。

太平洋戦争の頃は著名な白系ロシア人ピアニストのレオ シロタが住んでいた事もあるそうだ。レオ シロタはフェミニストで日本国憲法に女性の権利を盛込むのに功あったベアテ シロタの父である。このような別荘の「隠れた歴史」はどこにも明記されていない。これは恐らく軽井沢の古い別荘すべてに言える事で、今回の川端康成の別荘解体によってまたもや歴史、そして軽井沢の価値が消えた事になる。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です