第045回:イアン・ド・ステインズを偲ぶ

イアン・ド・ステインズ(1946-2017) BCCJ元会長BCCJ obit より

 前回外国人のアナウンサー達のことを思いだすままに書いたが、トップでご紹介したイアン・ド・ステインズが既に亡くなっていることを直後に発見した。彼は3年前の2017年の12月18日、69歳で亡くなっていた。今生きていたら72歳、僕より3歳年下だ。

先に調べればよかったのだが、まさか彼が亡くなっていたとは思いもしなかったし、また彼についてネットにそれほど情報があるとも思わなかった。そういった、僕も知らなかったイアンについての記事を中心に彼のことを偲びたい。

イアンの苗字de Stains (ド・ステインズ)はイギリス人というよりフランス人の名前の様だったのでずっと不思議に思っていた。直に聞くのも失礼かと思い、NHK時代には聞きそびれていたのだが、追悼記事を読んでやっと分かった。お父さまがフランス系だったのだ。

彼の故郷はシェフィールド近郊のウォンブウェルでフランス系イギリス人の父親とスコットランド人の母親の間に生まれたとのことだ。地元のグラマースクール(米語では小学校だが英国では大学予備校の様なところらしい)に通った後、これは既に分かっていたが、俳優の訓練を受けるためにロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツ(Royal Academy of Dramatic Arts, RADAと省略するらしい)に入学。卒業後、ヨークシャー・テレビのアナウンサーになった。その後、1976年にBBCに入社。それがその後僕などが彼と会う契機となったNHKへの出向につながる。

追悼記事には彼が日本に到着した時の笑い話が紹介されていた。彼が東京に到着した時、窓口の役人に「パイナップルはどこにあるんだ?」と聞かれて驚いた話。 日本が「違う」ことは知っていたが、入国にパイナップルが必要だとは知らなかった。実は彼は誤って、移民の列ではなく、ハワイから戻ってきた観光客の検疫の行列に並んでいたことに気がついたと言う話だ。

NHKに来てからもBBCの職員は、それなりに処遇されていたとばかり思っていた、なかなか大変だったようだ。これは知らなかったが、彼は当初高田馬場にある控えめな畳の部屋をあてがわれたそうだ。日本についての知識もなく日本語もほとんどわからなかったため、いわゆる海外駐在員と違って相当厳しい生活を強いられたようだ。もともとBBCの日本語部の職員との交換制度だったのでイアンの様なケースは想定されていなかったものと思われる。 知らなかったが、彼の前には1年くらい間が空いたのはそのあたりの事情を反映しているものと思われる。イアンはNHKに4年間勤務。

その後の彼の動向は全く知らなかったが、東京のBBC支局でフリーランスになり、その後小さな通信会社に就職したのだそうだ。

また 1980年にはBCCJ(British Chamber of Commerce, Japan英国商工会議所)の会員になったが、1987年にはエグゼクティブ・ディレクターに任命された。「メンバーがわずか100人のBCCJには、月刊ニュースレターを作成するための手回し謄写版機はあったが、ロゴ、ミッションステートメント、戦略もなかった」と記事は述べる。

 まさに彼の日本での活躍の場だったBCCJだったが、在職中のイアンの最も興味深い逸話の1つは、1993年に元英国首相のマーガレット・サッチャーに怒られた事である。(イギリス英語ではハンドバッグで叩かれたhand baggedと言うらしい。元祖はまさにサッチヤー夫人で、彼女が攻撃する事をハンドバッグで叩くと言い、イディオムとして定着した)過去回想で彼はこう述べている。「彼女は私に言った「このイベントは彼女が参加した中で最悪のイベントだった」と。そして私は一生で初めて「外交官の冷静さ」(diplomatic cool)を失う[つまりサッチャー夫人を相手に怒ったり]のではないかと思った」と。ところが約1か月後、イアンは大英帝国勲章(OBE, Order of British Empire)に叙勲されたことを知る。思いもよらない展開に驚いたそうである。これが英国流なのだろうか。

イアンは、結局2011年にBCCJを引退したが、これは彼が2010年後半、緊急心臓手術を受けたことが原因のようだ。 回復してBCCJから引退した後、彼はBCCJの機関紙 Acumenのために連載コラムを執筆することを依頼される。2つのページ、「If You Ask Me」(英国と日本、そして世界情勢についてのしばしば不遜な見解)と彼の評判の書評が誕生した。連載のコラムの愛読者は楽しみにしていたそうだが、雑誌 の2017年12月号に彼のコラムが見当たらなかったので、異変に気づいた人も多くいたようだ。

BCCJの追悼記事によると イアンの好きな作家はアラン・ベネットだった。彼の家族はベネットの本の1つを選んで、イアンの棺に入れたとのことである。 イアンはかつてベネットを引用した「それがわずかな人間にしか役立たないにしても、すべての知識は貴重である」と。これは英国流の謙遜だと思うが、作家だったイアンが彼自身の日本、そして彼の周辺について書き残した全てについて語っている様だ。そして僕にはその裏に彼の優しい微笑みが見える様な気がする。黙祷

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