第051回:コロラドスプリングスの思い出—昔の家

 僕がアメリカに渡ったのは1958年、母がアメリカの軍人と国際結婚をしたのでビザは移民ビザだった。僕は、本当の父が沖縄で戦死したのでアメリカにはそれほど行きたくもなかった。でも、これが運命と言うものだろう、結局アメリカへ行くことになり、アメリカ人の父の故郷がカリフォルニアだった関係でフレスノで彼の親族に挨拶しに行つた。この人たちは風が吹き抜けるような小屋に住んでいて非常に貧しいことがわかった。まさにスタインベックの「怒りの葡萄」を生きた人たちだった。この辺はまたいずれ。

その後、父が所属していた部隊の駐屯地コロラドスプリングスのフォートカーソンに向かって古いフォードで移動した。ロッキー山脈を超えるのは古い車には大変な難儀で、雪の中をチェーンをつけて走ったのを覚えている。チェーンをつける間僕が車の外で遊んでいたら、その時が最初で最後だったような気もするが、アメリカ人の父が「車の近くにいろ」と怒鳴られたのを覚えている。結局途中で引き返してもっと南のほうの道をうかいしてコロラドに向かったように覚えている。

大変な思いをしてたどり着いたコロラドスプリングスだったが、その甲斐あって、とてもきれいな街だった。相当に夏は涼しく冬は寒いところだった。標高1,500メートルの高級リゾートと言った感じで、違うタイプの街だが、標高平均1,000メートルの長野県軽井沢といい勝負だと思う。

町は素晴らしかったが、父の位がただの軍曹だったので基地には家の空きがなく、しばらくの間は市の南部のモーテルに滞在していた。そのうちに中学校にも通い始めたが、日本から送った荷物を受け取ることもできないし、しょうがないのでと言うことなのだろう一軒家を借りることになった。

先日も書いたが、市内を駆けずり回ってもう住所さえ忘れてしまった昔の家を探して回ったところ、なんと知り合いの家のすぐ近くにあった。殆ど笑い話。しかし、昔泊まっていたモーテルの近くだったので納得した。近所に家を探したのだ。

いくらこじんまりした街だと言ってもあの辺りからだと、僕が通い始めた中学校、North Junior Highまで、歩いて30分はかかるので、とてもその距離は普通は歩かない。そんなこともあって家はおそらく中学校の近く、つまり北のほうに(中学校そのものがNorth と言う名前なのだから)あると思っていた訳だ。

そういった「遠いなぁ」と言った距離感とかは全く記憶に残っていない。ただただ毎日学校まで歩き、そして荷物が届いてからは自転車で楽しく通っていた事しか記憶にない。人間の記憶と言うのはあてにならないものだ。

前回家について書いた時はハロウィーンの飾りが前庭に飾ってある光景を知人が写真に撮ったものをお見せしたのだけれど、見つけた時に撮った写真は下の通り。

元は平家だった。左のほうのちょっとだけ見える屋根がずっと右の方まで来ていたような気がする。裏に回るとロッキー山脈が右から左まで180度展開していたのを今でも覚えている。近所がだいぶ立て込んできたが、基本的には全く昔の通りだった。

そしてこの家の前には昔は農園があって馬がかけていたのを記憶していたのだが、今回戻ったらきれいな公園になっていた。下の写真の通り。Ivywild Parkアイビーワイルド公園と言う緑の札が立っている。昔はこの辺に柵があってその後ろを馬が走っていた。

当たり前だが、地形はほとんど同じ、後ろのほうに見える建物のいくつかが昔のままだったのはうれしい発見だった。知人によるとアメリカではよほどのことがない限り一応建っている家を取り壊したりはなかなかしないのだそうで、100年くらいは元の形が残っていることが多いとの事だった。

それは確かにその通りで僕の母がロサンゼルスで住んでいた家も古い木造家屋で、確か1930年代に建った家だったが、ずっと昔のまま建っていた。

次回は当時通っていた 中学校North Junior High School について書いて見たい。

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