第052回:ノース・ジュニア・ハイスクール(North Junior High School) の思い出

これは僕がアメリカで最初に通った学校のTシャツのデザインである。最近コロラド州の知人からもらったのだが、まず上に書いてあるNorth は校名、そして1924は学校ができた年だ。しかしその下にある赤いヘルメットがなぜそこにあるのか最近やっとわかった。この中学校のシンボルキャラクターがNorth menつまりバイキングなのだ。

当時なんでこんなさびついた気味の悪い骸骨のようなものが立っているのかと思ったのだけれど、シンボルがバイキングだと言うことを知ってから写真をもう一度よく見るとこれは確かにバイキングだ。

1958年、僕は東京を後にしてコロラド州コロラド・スプリングスに移住した。コロラド

・スプリングスの話題はいろいろあるが、今回は、アメリカで初めて通った学校、North Junior High School ノース・ジュニア・ハイスクール(北中学校とでも訳そうか)の ことをお話ししたい。

1958年当時アメリカに移住する人はそれほど多くなかったのではないかと思う。その中で日本の中学校からアメリカに移った事で色々と戸惑うことがあった。

コロラド・スプリングスは比較的小さい街なので中学校は東西南北と4つあったようだ。別の言い方をすると4つでとりあえず間に合っていたようだ。それぞれ方角によってノ-ス、サウス、などそれぞれ方角を頭につけた中学校があったわけだ。後から見ると本当に不思議なのだけれど、僕が住んでいたところは街の南の方でそこから北のほうにあるノース・ジュニア・ハイスクールに通うと言う事は普通は考えられないことなのだそうだ。街の反対側まで徒歩で約30分、自転車で15分位家街の中心を通って通った。

昔のままの中学校。渡り廊下の左が旧館、右の方が新しく出来た様だが、ノース・ジュニア・ハイスクール North Junior High Schoolと書いてある。

日本で通った木造の中学校に比べるとこの中学校は極めて立派で、レンガ造りの校舎はご覧の通りである。外見は当時と全く変わっていない。僕は3つの地域で計4つの公共の学校を転校したが、コロラド・スプリングス以外は今のところご縁がない。僕も75歳だしこのコロナの最中、おそらくもう他の2つの、特に西ドイツのアメリカンスクールをもう一度見る事はないだろう。と言うわけで、最初に通った、特に懐かしい中学校もう一度見ることができたのはなかなかの感激だった。

さて、最初の日の事を覚えているか、いやほとんど覚えていない。もちろん両親に付き添われて入り口の受付のような部屋でいろいろ書かされたりしたのだと思う。しかし言 葉がわからないし、何が何だかわからないうちに僕のアメリカの学校生活は始まっていた。

日本語の環境が全部急に英語の環境になってしまったわけだから周辺、何を言っているのか全くわからなかった。日本では中学1年の英語の授業が始まったところだったが、何しろ習ったのはThis is a penの教科書だった。例えば、歌は”Row, row, row yourboat…”それも後から考えるとひどい発音でエルとアールを間違って歌っていたようだ。この歌は”Twinkle, twinkle little starとともに、おそらくエルとアールの練習のために導入されたのではないかと疑うけれど、あまり役に立たなかった。なぜなら僕はその次に転校したマサチユウセツツ州、レミンスターの中学校でも発音、特にエルとアールの発音が悪いと注意された。とにかく通じないのだ。

それはさておき、訳が分からないなりに、僕は人見知りをする子だったけれどまだ子供だったからだろう、他の子供と一緒に次から次へと教室を回って授業は受けた。これはおそらくアメリカの制度が日本に導入されていたおかげでそれほど違和感も無かったのでは無かろうか。

学生は皆ホームルームを持っていてそのホームルームを起点に1時間目はどこそこ、2時間目はどこそこ、3時間目はどこそこと出先のクラスで何かを習うと言う仕組みは当時の日本の中学校と同じで特に変わっていなかった。

昼休みになるとホームルームに戻って、ホームルームの先生がクラスを監督し、時に課題を課した。しかし僕のホームルームの先生のなんとラフな格好だったことか。ときにはハワイアンのアロハシャツを着ていた事もあったように覚えている。なかなかハンサムな人でゲーリー・クーパーをどうかしたような年格好のこの先生は、クラスに本を朗読させるのを課題としていたので、最初当てられた僕は訳がわからないローマ字をただただ読 み上げ、先生はまたそれんに特に何のコメントするでもなくパスを出していた。これはあまり素晴らしくない授業の例だが、急に日本から子供が来てもどう対応して良いのかわからなかったのだろう。

1日で1番の行事は昼ごはん。日本の中学校の頃は小学校と違って給食もなかったので、およその子は弁当を持っていっていたようだが、母が勤めに出ていた関係で僕はよくパンを 買って食べていた。当然食堂で食べたことなどない。

この中学校では地下1階に大きなカフェテリアがあった。食堂だろうか。日本の社員食堂に似たようなところで、もちろん家から何か持ってくる生徒もいて、そういう子は自分の持ってきた袋に入れたサンドイッチなどを食べてもよかったのだけれど、そういうものを持ってこなかった生徒は行列に並んで、今では覚えていないけれど恐らく25セント位の食事を購入した。日替わりのランチは、毎日それほど違いは無いものが並んでいたように記憶している。

僕は何でも食べられる子供だったので出てきたものに対して何の文句もなかったけれど、やはりどちらかと言うと日本人の口に合わないハンバーグのような、脂っこいものが多かったように思う。他には、例えばスパゲッティーミートソース、たまに白身魚の衣揚げのようなものとか。特段まずいと思った事はないが、それほど美味しいものではなかった。そう、それから日本ではまずお目にかからないような、いや、今ではスーパーとかコンビニの冷凍食品売り場で手に入る冷凍、あるいは缶詰の野菜のようなものが毎日付け合わせで出ていた。

しかし、何といっても日本と一番違った事は子供たちが昼食の時に大きな箱入りの牛乳を1箱飲んでしまうと言う事だった。日本で言うと500ミリリットル位の大きさの牛乳、何しろ僕は日本で牛乳をほとんど飲んでいなかったので、飲み物としてはこれしか昼食に出てこないと言うのは1番困ったことだった。おそらく最初の頃は下痢をしていたのだろうと思うけれど、だんだん慣れてきて最後には昼ごはんになると牛乳を一箱ぐらいの飲まないと気がすまない様になって来た。紅茶などは子供には無縁だったし、もちろんコーヒーも出ない。何を食べるにしてもミルクは必ず飲む。一体いくらだったのだろうか。10セントくらいだったのだろうと思うけれど結局、10セントのミルクを買って飲み、25セントくらいで買ったパン付きの給食を食べていた。不思議なことに僕は日本人が大好きな白米は特段好きではない子供だったし、考えてみると日本の小学校でさんざんコッペパン付きの給食を食べさせられていた関係で、アメリカの中学校の給食がパンのついた「洋食」だったことには特別に感激もなければ違和感もなかった。日本は食生活からアメリカ化されていたのだ。そしてその結果、一種の恩恵に浴したのが僕だったわけだ。

面白かった事は、日本では僕は国語が1番よくできてその次が社会科だったが、音楽と数学そして体育はあまり良い成績が取れなかった。しかし言葉が全く使えなくなってしまうと形勢は逆転。あれほど体育の嫌いだった僕は体育のクラスでは頑張って良い点をもらい、音楽の時間もアメリカの中学校では素朴に歌を歌う場だったから一生懸命歌を歌うことによって良い点を得ることができ、数学が、苦手だった僕はアメリカでは他の学生よりよくできたと言う不思議なことになった。

一方日本で良い点とっていた国語は英語のクラスになってしまったし、社会科も説明が分からずで全くの劣等生となってしまった。

それでも今でも覚えているけれど社会科では日本の今の生活を伝えようと言う趣旨だったのだろう、戦前の京都西陣のルポルタージュのようなものを見せてもらった記憶がある。先生が盛んにこれは日本かと聞くのだけど確かに日本だけどもう古い日本だと何度言っても通用しなかったのを覚えている。

何はともあれ1番よくできた絵画のクラスで、これは全く言葉が必要ない世界だったのでこれだけはアメリカでも終始一貫Aをもらっていた。

以前も書いたけれどこの間のアメリカの成績はなんとPDFファイルになって保管されていた。知り合いが小学校の先生をやっていた関係で成績簿を手に入れてくれた。今言ったような成績が載っていた。そしてこれも書いたが、成績簿を見て分かったことは、最初のアメリカの中学校に僕は実はたったの8カ月しか行っていなかった事だ。記憶に良く残っている事も多く、きっと少なくとも丸一年、もしかしたら2年近くいたのではないかと思っていたのだが、結局は正味6カ月。1958年3月編入、夏休みを挟んでその年の10月には退出と書いてある。2ヶ月の長い夏休みを引けば最初のアメリカの学校North Junior High Schoolでの在学期間は思いの外短いものだった。

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